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コラム




フィリピンの海

ミンドロ島プエルトガレラバラデロビーチ

ここへ行こうと思ったきっかけは、香港がはじまりだった。フィリピンで暮らしていて、くう、ねるの単調な暮らしに飽きていた私は、どっか旅行にいくことにした。
日本で働いているわけではないので、あまり贅沢はできない。
フィリピンから、近くて物価も安い国ということで、中国にいくことにした。香港からはいって陸路で、いくことにした。ビザは、香港でとると安くて早いので、そこでとることにした。一ヵ月の旅程である。昔、バックパッカーだったので、香港、中国は何度もいっていた。いつも常宿としていたのは、九龍にあるネーザンロードにある重慶マンションで、立地のよさと、値段の安さが魅力だった。行きは、ここに泊まったが、帰りは、中国雲南省の昆明で知り合った大阪出身のバックパッカーにすすめられ、上海街にある日本人が経営しているラッキーゲストハウスにとまった。そこは日本人専用宿で、値段も安いし、旅の情報がいっぱいあった。香港は、旅の中継地として世界中から、パッカーが集まるのである。
そのなかで、フィリピンの情報もわずかながらあった。なんでも、フィリピンのミンドロ島のプエルトガレラというところがある。そこにはいくつものビーチが点在していてそのなかのバラデロビーチに、日本人の経営しているナグラビーチリゾートというのがある。それまで、フィリピンのビーチはかなりまわったつもりでいたが、そこにはまだいったことがなかった。その二日後またフィリピンに戻って一週間もたたないうちに、今度はミンドロ島にいってくるとみんなの前で告げた。
するとほとんどの人が否定的な意見で、あぶないからやめたほうがいい。という答えだった。第一ひとりでそんなところへいけるの?無理、無理と否定的な意見だった。学生のころからアジア各国を旅していた私には、フィリピンの旅行なんか、らくしょうだった。なぜなら、英語が通じるし、そんなに秘境でもない。治安だってもっと悪い国を旅してきたし、その否定的な意見に私のなかにあるバックパッカー魂に火がついた。よし、あした出発する。決定した。
朝まだ日も昇らない、朝五時に出発した。いくらトロピカルなフィリピンといっても、この時間帯だと、半袖ではちょっと寒い。そうそうにバスに乗り込む。この時間帯だと渋滞がないので、ここカバナトゥアンからマニラまで三時間でついてしまう。次にケソンシテイで降り、タクシーに乗り換えて、BLTBのバスターミナルへ向かう。よかったすぐ出発する便があった。エアコンバスじゃあなかったがまだそれほど暑くなかったのでかえって気持ちよかった。約三時間で、終点のバタンガスに到着した。さあこれからフェリーで、ミンドロ島のプエルトガレラにむかう。まだ出発時間まで間があるので軽く食事することにした。焼きなすをオムレツにしたものと自家製ソーセージを食べた。安食堂のライスはとてもまずいので、パンをたのんだ。フィリピンでパンといえば、パンでサールのことで形はだ円形で日本のろーるぱんに似ている。でも食べた感じは密度がこくて、日本のパンのようにふわーっとした食感はない。
食事をすませて外にでると、お兄ちゃんに声をかけられた。フェリーの出発までは、まだ時間があるので、別のボートはどうだ?フェリーだと港から、ビーチまでジプニーに乗り換えなきゃあ、いけないのだが、ボートだったら、直接ビーチまでいける。所用時間も早いということだった。乗船したら、少しエンジン音はうるさかったが、すこぶるかいてきだった。だだ波しぶきように、透明なビニールシートがかけられ、このため、南国の太陽の日差しをあびて、なんかビニールハウス状態になりとても暑かった。
そうしているうちに船は湾から、外洋にでた。そしたらゆれるのなんの。本当に沈没するんじゃないかと思ったぐらいよくゆれた。他のフィリピン人観光客もみんな文句をいっていた、地元の漁師出身の船頭はこれぐらいはどってことないんだろうけど、この日が特別に波が高かったのかは、一回こっきりなので、定かではないが、日本だったら、絶対ありえない乗り物だ。フィリピンだとそういうところが、まだまだいい加減で、フェリーに定員オーバーの人数を乗せて、船が沈んだり、地方行きのプロペラ機なんか、私が子供の頃飛んでいたYSー11なんかがまだ使われていて、いったい何年前に製造された飛行機なんだ?と疑心暗鬼に陥るのである。
そういうことで、なんとか、無事にビーチにたどりついたのだが、ボートのうるさいエンジン音のおかげでしばらく耳鳴りがやまなかった。やっとの思いでナグラビーチリゾートに到着した。ここプエルトガレラの住民は、旅行代理店のようなシステムがあって、お客さんを連れてきてくれると、宿側が、キックバックをするシステムになっていたのでした。だから、道を聞いただけなのに、親切に案内してくれた。なんておもうのは、早合点なのだ。ナグラビーチリゾートはプエルトガレラの中程に位置する落ち着いた感じのビーチリゾートで、とても静かだった。応対してくれたのは、オーナー夫人で、あのイメルダマルコスと同じレイテ島の出身だった。ここは、夫人とその妹の二人で、きりもりしていた。海の方から見て、真ん中がレストランになっていて、右側がコテージ左とは比較にならないほどの情報量で、結構観光客がいかないような、マイナーなところまで詳しく載っていたので、主要な所はメモをとらせてもらった。これが今後フィリピンをりょこうするうえで、大変役立った。マニラのナショナルブックストアでも買えるのだが、日本で買うよりも値段が高いので、買わずにいた。ペソの生活になれてしまうと、輸入品は非常に高くおもえてくる。ふぃりぴんの生活になれると100ぺそ札一枚ポケットにあれば、だいたい事足りてしまう。
そのうち500ペソが何か一万円札のようなきがしてくる。こういう感覚は、フィリピンで暮らした人しかわからないだろう。町中のちいさな食堂にはいって食事をして支払いのときに、500ペソ札をだすとだいたいおつりがないので、店員がとなりのみせに両替にはしる。だが隣でも両替できない。こんなことがよくあるのだ。 話を元に戻そう。二日ぐらいして、オーナーの名倉さんが帰ってきた。たしかその当時は70歳だったと思う。でもダイビングやシュノーケリングで鍛えた体ははがねのようで、とてもそんな年には見えなかった。なんでもシュノーケリングでフィリピンを訪れているうちに、どうしても住みたくなったのだ。そうだ名倉さんにフィリピンで最高のダイビングポイントはと尋ねたら、ネグロス島のドゥマゲッテイの沖に浮かぶ小さな島アポ島が一番だそうで、透明度50mのすばらしい海とドロップオフで大型回遊魚などがたくさんいるそうだ。だが珊瑚の種類の豊富さでは、ここバラデロもいいといっていた。ビーチのそばでは、珊瑚が死滅していたが、少し沖にでるとそれはすばらしい珊瑚礁がつづくんだそうだ。
あと名倉さんはタガログ語ができなかった。じゃあコミニケーションは何語でとるの?と思ったら、英会話ならぬ、英単語会話だった。英単語を羅列して話す、だからちゃんとした文にはならないけど、結構通じるみたいだ。この会話法には驚いた、その頃はまだ初心者で、あまりタガログ語が話せなかった私にはでたらめでも、通じればいいんだ。という変な自信をもった。
次の日対岸まで、近所の男の子の操る自作ねヨットで対岸の島に渡った。そしてそこから、シュノーケリングでさんごを見ながら沖にむかって泳いだ。 ここの珊瑚礁はすばらしかった。ずっと何キロにも渡って伸びているしかも種類も豊富で色あざやかで私の目をくぎずけにした。いろいろなバリエションで次から次へと新しいものが展開するので、時間のたつのも忘れてしまった。しばらくたって海上をみたら、仰天した。やばい、陸地が見えない。はじめての海なのでどっちにむかって泳いだら陸にたどりつけるのかまったくわからなかった。正直あせった。とりあえず方角を決めて泳ぐしかない。なるべく体力を温存しながら、焦る気持ちを抑えながら、泳いだ。運が悪ければ力尽きて死ぬかもしれない。長い時間だった。やがて何か見えてきた、陸かなんだかここからははっきり確認できない。ほどなくしてついに陸地が確認できた。やった助かった。こんな記憶は小学校の時川でおぼれて以来だった。
フィリピンで初めて命の危険にさらされた。私にとってにがい経験となった。